山門から貴船に至る西門まで歩く「修行の道」を歩く予定で鞍馬寺に来ました。
想定外の朝からの大雪で少々不安もありますが、せっかく来たので頑張って歩くことにします。
なんとしても貴船神社に行きたい!
ちなみに、ケーブルカーを往復利用して山門から本殿を参拝するのを「安楽の道」と言います。
大体の所要時間は山門→本殿金堂まで30分、本殿金堂→奥の院まで30分、奥の院→西門(貴船)まで30分の1時間半。
鞍馬寺の参拝時間が16時までで、貴船神社の参拝時間が17時まで。
鞍馬駅に到着した時に既に15時30分を過ぎているので、かなりギリギリのタイムアタック状態です(笑)
そもそも、この目安となっている所要時間は晴天時のものです。
普明殿(山門駅)からケーブルカーに乗ることも考えていましたが、全く人がおらず、既に営業時間が終わってしまったのだと思い、健脚コースしか残された道は無いと坂道を上ることにしました。
しかし、その坂道がめちゃくちゃ滑る!
全く進めません。
こんなところで転倒したくない…
戻ることも考えたのですが、下る方がもっと怖い。
仕方なく、重心を低くバランスを取りながら上ることにしました。
この時は調べる余裕が無かったのですが、ケーブルカーは15~20分間隔で動いており、上りの最終は16時30分だったようです。
つるつる滑るので全く立ち寄ることなど考えられませんでしたが、普明殿を少し過ぎると右手に 「放生池」「吉鞍稲荷社」「魔王の滝」や「鬼一法眼社」 がありました。
『義経記』で義経は、兵法の大家、鬼一法眼から兵法書 『六韜』 を盗み、学んだとされています。
由岐神社から参道に戻りました。
ここからいよいよ九十九折の道になります。
無事に本殿に到着しました。
平安中期、白河上皇や藤原道長・頼通、藤原師通らが相次いで鞍馬寺に参詣し、それに伴って王朝に仕える女流文学者たちも多く来山しました。
清少納言は『枕草子』で鞍馬の九十九折の道を「近うて遠きもの、くらまのつづらをりといふ道」と記し、菅原孝標の女は『更級日記』に「春ごろ、鞍馬にこもりたり。山際霞みわたりのどやかなるに」と参籠の様子を描いています。
赤染衛門も「二月にくらまにまうでしに、いはまの水のしろくわきかへりたるが雪のやうに見えしに」と歌に詠み、紫式部は『源氏物語』若紫巻で光源氏と若紫の出会いの寺を鞍馬寺として描写しました。
こうして鞍馬寺は王朝文化の舞台として文学に刻まれました。
平安末期、末法思想が広がる時代には、鞍馬寺の僧兵が比叡山の僧兵より数は少ないものの、勇猛さで知られました。
源義経(幼名牛若丸)は七歳で入山し、十六歳で奥州平泉へ下ったと伝えられています。
昼は由岐神社近くの東光坊で仏道修行に励み、夜は僧正ガ谷で天狗から兵法を授かったという伝説が残り、後世の能『鞍馬天狗』などにも描かれました。
南北朝期には僧兵の出兵を促す文書や後醍醐天皇の綸旨が多数残され、寺院が軍事的役割を担ったことがうかがえます。
戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康ら名だたる武将が戦勝祈願に訪れ、豊臣秀頼は由岐神社拝殿を再建しました。
鞍馬寺の歴史を読んでいると、NHKの大河ドラマが頭をよぎります。
藤原道長は柄本佑、紫式部は吉高由里子という風に、顔が全部俳優さんになってしまいます(笑)
そして、ここから奥の院へ向かう参道を進みます。
時刻は16時5分。
貴船神社の拝観時間が17時まで。
1時間を切っているので不安ですが、ここまで来たからには行くことにします。
このルート、行く前にめちゃくちゃ調べたのですが、積雪の時季に歩いているレポートが全く見当たらないどころか、オススメしないとの記述が多いので不安です。
とはいえ、本当に行ってはいけない時は通行止めになるようなので、今日は行って大丈夫のようです。
ギリギリ、17時前に貴船(西門)に到着出来ましたが、雪の参道(山道)は遭難しそうなレベルでした。
途中に緊急時の連絡する際の目印となる番号の看板が立っているのも、恐怖心を煽られました。
実際、奥の院 魔王殿からの下りでは滑って転びました。
よく時間通りに歩ききれたと思います。
本当に「修行の道」でした(笑)
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