「三閉伊一揆発頭人弥五兵衛の墓」に来ました。
県道44号(岩泉平井賀普代線)沿いに立て看板がありました。
これが無いと全くわかりません。
畑に行く道のようなところを70mくらい入ったところに、いくつもの石碑と説明がありました。
『三閉伊一揆発頭人弥五兵衛の墓』
この墓は、弘化四年三閉伊一揆発頭人、切牛(佐々木)の弥五兵衛のものです。
となりには、妻の墓があります。
弥五兵衛の家は、屋号を「林の前」 と言い、大きい家で財産も多くあったと伝えられています。
史料によると、 弥五兵衛は「老名」という「肝煎(今で言う村長)」の補佐役であったことが判ります。
また、弥五兵衛は、塩や海産物を内陸へ運ぶ牛方をしていました。
その傍ら十数年間にわたり盛岡藩の圧政をただすため、一揆の蜂起を勧説して歩いたとされています。
弥五兵衛は、記録によると「弥五兵衛こと万六」・「小本の祖父」・「弥五郎」・「万五郎」などの呼び名がありました。
一揆の発頭人という立場から、藩を攪乱するため複数の名前を使ったのか、現在でも謎の多い人物とされています。
弥五兵衛は、弘化の一揆で百姓の要求を一時は聞いた藩に対して、必ず藩はまた圧政をくり返すど、再び蜂起するよう説いて回っている時に、藩の同心に捕らえられ、嘉永元年六月十五日に牢死したとされています。
斬首されたという記録もあります。
弥五兵衛が考えたとおり、藩はまた圧政を行いましたが、弥五兵衛の意志は、多助や喜蔵、倉治らに受け継がれ、嘉永六年の一揆が成功するのです。
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