駒ヶ根にある国指定名勝「天台宗別格本山 光前寺」に来ました。
天台宗宝積山光前寺は、不動明王を御本尊として、貞観2年(860年)本聖上人により開山されました。
本聖上人は比叡山にて研学修行の後、太田切黒川の瀑(たき)の中より不動明王の尊像を授かり、この地に寺を開かれたと言われています。
以来、度々の火災により古記録等を失いましたが、武田、羽柴家の保護を受け、特に徳川家より地方寺院としては破格の六十石の朱印地(しゅいんち=江戸時代に幕府や大名より、神社、寺院の領地として承認された土地のこと)を受け隆盛を極めました。
明治以来多くの末寺等が廃寺となりましたが、今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、本堂、南信唯一の三重塔、三門、経蔵、仁王門、重要文化財の弁天堂、大講堂、鐘楼など十余棟の堂塔を備え、南信随一の祈願の霊場として広い信仰をあつめています。
本堂の前庭と本坊客殿奥の庭園、仁王門から参道を経て三門本堂へと続く直線状の伽藍配置、およびそれをとりまく境内林など境内全域約6.7ヘクタールが、光前寺庭園として文化財保護法による国の名勝に指定されています。
そして境内南側(約11ヘクタール)は、県の環境保全地区に指定されています。
杉並木の参道や巨木が生い茂る境内は静寂な空気が漂っており、長野県下随一と称せられるほどです。
本堂は嘉永四年(1851年)に再建されたものです。
開山の室町時代から残っているのは弁天堂だけだったそうなのですが、弁天堂はスルーしてしまいました…
御本尊の不動明王は、七年に一度ご開帳されているそうです。
ご本尊の周りには八大童子も祀られています。
とても繊細な彫刻のようですが…遠くからしか拝めなかったのが残念です。
*本堂内部は写真撮影禁止ですので、写真は拝借しております。
手水舎には観音菩薩様がいらっしゃいました。
少し歩くと守屋貞治の石像もありました。
全く説明などが無いので、”守屋貞治”と調べたところ、「稀代の名工」と呼ばれた、高遠の石工でした。
生涯において350体にもおよぶ作品を残し、高遠町の建福寺に安置されている「西国三十三所観世音菩薩」は名作です。
貞治に大きな影響を与えたのが、諏訪市の温泉寺の住職・願王和尚とのことで、少々温泉寺にご縁があるものですから、親近感を持ってしまいました。
三重塔は文化五年(1808年)の再建で、高さは約17mです。
長野県宝にも指定されています。
三重塔の前には霊犬 早太郎の像とお墓がありました。
霊犬 早太郎伝説
今よりおよそ700年程も昔、光前寺に早太郎という大変強い山犬が飼われておりました。
その頃、遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがありました。
ある年、村を通りかかった旅の僧である一実坊弁存は、神様がそんな悪いことをするはずがないと、その正体を見届けることにしました。
祭りの夜に様子を伺っていると、大きな怪物が現れ『今宵、この場に居るまいな。早太郎は居るまいな。信州信濃の早太郎。早太郎には知られるな』などと言いながら、娘を攫っていきました。
弁存はすぐさま信州へ向かい、ようやく光前寺の早太郎を探し当てると、早太郎をかり受けて急ぎ見付村へと帰りました。
次の祭りの日には、早太郎が娘の代わりとなって怪物と戦い、それまで村人を苦しめていた怪物(老ヒヒ)を退治しました。
早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物退治を知らせるかのように一声高く吠えて息を引き取ってしまいました。
現在、光前寺の本堂の横に、早太郎のお墓が祀られています。
また、早太郎をかり受けた弁存は、早太郎の供養にと《大般若経》を写経し光前寺へと奉納いたしました。
この経本は現在でも、光前寺の宝として大切に残されています。
この話は「猿神退治」として、まんが日本昔ばなしの昭和51年7月31日放送分でアニメ化されているそうです。
三門は嘉永元年(1848年)の再建です。
上層に十六羅漢が祀られています。
三門までの参道にある石垣には、光苔が自生しているそうです。
4月中旬から10月下旬しか見れないそうなので、この時は見ることは出来ませんでした。
しだれ桜の名所としても有名で、開花期間中はライトアップもされています。
紅葉も見事で、10月下旬~11月上旬の見頃には、こちらもライトアップされています。
境内の杉も樹齢数百年の巨木でした。
周囲には探勝園もあるので、散歩をしてみたいです。
そのためにはツアーなどではなく、このお寺にたっぷり時間を取れるようにしないとダメですね。
しかも、光前寺に来ることを知らなかったので、色々調べてから来るべきだったと悔やまれます。

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