イタリアのナポリ近郊にある古代ローマ時代の都市遺跡『ポンペイ遺跡』の見学です。
ポンペイは、紀元前8世紀にオスク人によって創建された街です。
予兆である紀元62年の地震の復旧作業が続く中、紀元79年8月24日にヴェスヴィオ山が大噴火します。
3日間続いた噴火に人々は逃げる事が出来ず、6m以上の火山灰に覆い隠され、ほぼ完全な状態で保存されました。
発掘調査によって、古代ローマ人の生活を垣間見ることができる貴重な世界遺産として知られ、映画にもなった「悲劇の街」として有名です。
まだ発掘されて250年くらいしか経っていないというのも驚きです。
遺跡が見えて来ました。
Terme del Sarno(サルーノ浴場)です。
しかし、城壁沿いをずっと歩いており、なかなか中に入れません(笑)
きっと入口であろうという道が見えて来たのですが、どうやったらあそこに辿り着けるのだろう…なんて思ってしまうくらい迷路のようです。
Porta Marina(マリーナ門)から中に入ります。
ここは港で、船が停泊していた跡も残っています。
門へ続く道は急勾配となっており、門は歩行者用と馬車用の2つの半円筒のヴォールトに分かれています。
実際に通ってみると門というより、トンネルといった印象を受けました。
マリーナ門を抜けると、第Ⅶ地区(REG.Ⅶ)と呼ばれるオスク人が居住していたポンペイ最古の居住中心地区に出ました。
この通りはマリーナ通りと呼ばれ、膨大な交通量を支えた主要道路だったようです。
通りの名前が書かれた案内板もありました。
右手にはTempio di Venere(ヴィーナス神殿)がありました。
紀元前1世紀頃に守護神として祀られるために建てられた神殿ですが、62年の地震で倒壊してしまい、大噴火の時には修復工事がほぼ終わりかけの状態だったようです。
使われなかった建築資材も見つかっています。
とても神殿だったとは思えない廃墟感です。
ヴィーナス神殿の隣にあったのは、Basilica Pompeiana(バジリカ)です。
2列の円柱に囲まれた、55×24mの建物の跡です。
円柱が白ではなく、レンガ製の茶色だったのが印象的でした。
株式取引所や商業・市民裁判の場として機能していた、大きな公共施設だったようです。
バジリカの前にあるのが、紀元前6世紀に建てられたTempio di Apollo(アポロ神殿)です。
神殿の土台と、1部の柱が残っているのみでしたが、白いトラバーチンの祭壇と日時計の役割を持つイオニア式の円柱はキレイに残っています。
少し角度を変えたら、祭壇がよくわかりました。
矢を射るアポロの像の他に、ディアナの像もありましたが、この2つのブロンズ像はレプリカです。
道路の所々に飛び石がありましたが、これ、横断歩道です。
車道(馬車道)なので、石の間隔は車輪が通れる幅に設定しているんだそうです。
道路は全て当時のままです。
アポロ神殿の東に広がるForo di Pompei(フォーロ)です。
正確に南北に向いた38×142mの長方形の広場です。
奥(北側)にはジュピター神殿であったカピトリウムが見え、その向こうには、このポンペイを滅ぼしたヴェスヴィオ山も見えます。
Edificio di Eumachia (Portico della Concordia Augusta)エウマキア館です。
正面玄関にあたる門には、大理石の浮彫彫刻が施されています。
これは修復されたもので、これ以上傷まないようにカバーで覆われています。
エウマキア館の隣にあるのが、Tempio di Vespasiano(ヴェスパシアヌス神殿)です。
レリーフが美しい白い祭壇が残っていましたが…これ、生贄の祭壇なんだそうです。
レリーフには生贄にされる雄牛が描かれていました。
生贄が牛で少しホッとしましたが…それでもやっぱり残酷ですよね…
フォーロに戻って、奥にあるTempio di Giove(ジュピター神殿)まで来ました。
西側にあたる部分に台座が並んでいます。
その台座の上には、かつては名誉の像が並んでいたんだそうです。
台座の向こうにはGranai del Foroが見えます。
出土品などが展示されているギャラリーのようになっていたので、見れなかったのが残念です…
横にあったのがArco di Augusto(アウグストゥスの凱旋門)でした。
Macellum(マケルム)、食料品取引の場所です。
入口には両替屋がありました。
中にある12本の柱をストーンヘンジのような儀式的なものかと思ったのですが、下水道設備付きの水槽が設置された小屋の跡だそうです。
魚の小骨も発見されたことから、魚市場だったと推測されています。
奥には皇帝崇拝の神殿跡もありました。
マケルムの北西側にはユリシーズ伝説のフレスコ絵画装飾の壁が残っており、そこに火山灰に埋もれた人型の石膏が展示されていました。
遺体部分だけが腐敗消失して出来た火山灰の中の空洞に、考古学者達が石膏を流し込み、逃げまどう市民の最期の瞬間を再現したという展示物に、息苦しさを感じてあまり直視出来ませんでした。
本物の頭蓋骨がそのまま覗いていたり、食いしばった状態の歯が並んでいたり…写真を撮るのすらも躊躇われてしまいました。
ジュピター神殿の右側にあるArco di Nerone(栄光のアーチ)横を通り、フォーロ通りをカリゴラ門に向かって進みます。
ワイン樽を運ぶ人が描かれた柱がありました。
地区の境界線の案内かと思ったら、一方通行の道路標識とのこと。
こんな昔からしっかりした交通ルールがあったことに驚きです。
穴の中に裸の男性が描かれた柱があったのですが、何を意味しているのかわかりませんでした。
説明とかも無く、ズンズン進みます。
フォーロ通りに交差するアウグスタ通りなど、観光スポットが無い通りは全く人通りが無くてびっくりでした。
フォーロ通りの左手には、美しく装飾された天井と壁の彫刻があるTerme del Foro(フォロ浴場)があるのですが…通過です。
本物のテルマエ・ロマエ、見たかったです…
飛行機の中でテルマエ・ロマエの映画を見てしまったので、めちゃくちゃ期待値が上がっていたのでガッカリ😢
フォロ浴場の前には居酒屋がありました。
昔から風呂上がりの一杯ってあったのですね。
Arco di Caligola(カリゴラ門)の手前にはTempio della Fortuna Augusta(フォルトゥーナ・アウグスタ神殿)がありました。
神殿の手前には生贄を捧げる祭壇が残っています。
神殿の奥にはフォルトゥーナ像を安置していたそうです。
Casa del Fauno(ファウヌスの家)に来ました。
もともと玄関であったであろう場所からは入れず、横から中に入ります。
ファウヌスの家はサムニウム時代の大金持ちの邸宅です。
トスカーナ式Atrium(中庭)の中心にImpluvium(雨水を受ける水盤)があり、名前の由来となったファウヌスのブロンズ像が立っています。
Tablinium(アトリウムに面した事務室))やTriclinium(食堂)の床にある大理石のモザイク装飾や、第一のPeristilium(回廊で囲まれた庭園)の壁にあるフレスコ画が見事です。
第一のPeristiliumはイオニア式の回廊で、中央に噴水がありました。
ポンペイ遺跡の中で、初めて緑の植物を見ました!
中でも特に有名なのが、Exedra(休憩所)の床にある『アレクサンドロス大王とダリウスの戦い』のモザイク画です。
これはレプリカで、本物はナポリ国立考古学博物館にあるそうです。
裕福な家の跡を見ていると、ヴェスヴィオ火山の噴火の影響で、一夜にして滅んでしまっただなんて信じられません。
栄光のアーチへ続く、メルクリオ通りに戻って来ました。
交差点にはFontana di Mercurio(メルクリオ噴水)と呼ばれる人の顔のモチーフの水飲み場がありました。
あちこちに水飲み場はあるのですが、さすがにコレを飲むのは危険です。
ポンペイ遺跡の入口あたりでしか水は買えないので注意です。
Via Di Mercurio(メルクリオ通り)をカリゴラ門まで戻り、西側に曲がります。
残念なことに『猛犬注意』のモザイク画で有名なCasa del Poeta Tragico(悲劇詩人の家)は入れず、門からフレスコ画を撮るのみ…
この辺りは修復工事などで立ち入り禁止になっている場所が多かったです。
Casa di Pansa(パンサの家)にも入れなかったのですが、向かいにパン屋の跡は見ることが出来ました。
石臼や生地をこねる台だけでなく、焼き窯も良い状態で残っていました。
パン屋は他にもあり、モデストのパン屋の焼き釜の中からは、実際に焼かれたパンも炭化した状態で81個発見されたそうです。
パンは現在のフォカッチャのような平たいものだったようです。
Via Consolare(コンソラーレ通り)に出ました。
右側にCasa di Sallustio(サッルスティオの家)がありました。
ポンペイで最古級(紀元前3世紀頃)の家で、後にホテルとして利用されていた建物です。
こちらも入れず…
Vicolo Di Narciso(ナルチーソ通り)とのY字路に出ました。
ここにもFuente de Sileno(サイレヌスの噴水)という水飲み場がありました。
コンソラーレ通りをエルコラーノ門に向かって進みます。
コンソラーレ通りの右側には飲食店の跡がたくさんありました。
ここはTABERNA PHOEBI(フィービーのお店)だというのが、柱に書かれているプレートでわかります。
基本的には立ち飲みスタイルのバールが多かったようです。
Porta Ercolano e cinta muraria(エルコラーノ)門から外に出て、セポルクリ通りを歩きます。
エルコラーノ門はヘルクラネウム門とも呼ばれています。
『マンミアのスコラ』という半円形のベンチやと、その向こうに『イスタキディアの霊廟』と呼ばれる3本の円柱の記念碑がありました。
ベンチの背もたれには文字が彫られていました。
Villa di Cicerone(シセロの別荘)やVilla Delle Colonne a Mosaico(モザイクの円柱の別荘)、Villa di Diomede(ディオメデース荘)など数々の遺跡もありますが、左右には墓碑も多くあり、セポルクリ=墓地というのが頷けます。
ここは裕福な家の共同墓地なんだそうです。
モザイク画が描かれたお墓とは思えないようなものもありました。
最後はVilla dei Misteri(秘儀荘)です。
約60部屋もある大豪邸ですが、町から少し離れたところにあります。
秘儀荘はギリシャから伝来された秘教”ディオニソス教”の信仰のための建物でした。
ディオニソス教はローマ帝国から弾圧されており、監視対象だったので離れた場所で隠れて信仰していたようです。
ディオニソス神とは、ギリシャ神話に登場するお酒の神様バッカスの事です。
町中でワインは頻繁に飲まれているので、何故弾圧されていたのでしょう…
秘儀の間です。
ディオニューソスの秘儀と呼ばれる、結婚の儀式に参加した女性が変容していく様を捉えたものとされている10のシーンが、入口左手から時計回りに描かれています。
中までは入れなかったので入口からしか見ることが出来なかったのが残念です。
ポンペイレッドと呼ばれる赤い壁が印象的でした。
まだ修復されていない部分が多かったので、全部修復されたら凄そうです。
ポンペイ遺跡の中にもにはまだまだ見所がいっぱいあって、スタビアーネ浴場、ステファノの洗濯屋、円形闘技場は見てみたかったです。
発掘も続いているので、もっと見所も増えるのかもしれません。
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