日蓮宗 霊跡本山 比企谷 妙本寺

妙本寺 祖師堂

今日、最後に来たかったのは、この日蓮宗 霊跡本山 比企谷 妙本寺です。
あまり若宮大路より東側に行くことが無いので、調べて行ってみました。

妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。
開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。
この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ))」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。
その争いを「比企の乱」といいます。
比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。
能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。

妙本寺 由緒書き
妙本寺 参道

二天門(にてんもん)

妙本寺の杉木立の参道を抜け、石段を登り切ると、目の前に現れる堂々とした弁柄塗りの門が「二天門」である。
門の左脇には大きな楓があり、新緑、紅葉の季節にそれぞれ見事な色どりを添える。
また、門は建立時の棟札によれば、天保11年(1840年)、第47世 日教聖人の代に司務職本行院第54世 日恭聖人のもと建立されたとある。

門には様々な彫刻が施されているが、中央の龍の彫刻は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し、息を吹き返した。
なんでも、2、3歩後ろで手を拍つと龍が鳴き声をあげるとかあげないとか。
また、一般的な寺院に見られる仁王門とは異なり、仏教の守護を誓われた帝釈天に仕える四天王(持国(東)・広目(西)・増長(南)・多聞(毘沙門)(北))のうち、持国天と多聞天を安置してあることから二天門という。
持国天は、祖師堂に向かって右側に、多聞天は左側に足下に邪鬼を踏みつけ仏法を守護する構えを見せて祀られている。

妙本寺 二天門
妙本寺 水屋
紫陽花

祖師堂(そしどう)

日蓮宗の開祖である日蓮聖人(祖師)を祀るお堂。
お堂内中央正面の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人をお祀りしています。
当山の祖師堂は第二祖 日朗聖人建立ののち、第8世 日調聖人が再建し、現在の十二間四面の祖師堂は第47世日教聖人の時(天保年間、約170年前)に建立されたもので、鎌倉では最大規模の大きさを誇るお堂です。
祖師堂では毎年、この妙本寺の旧末寺寺院住職が出仕し、千部会(4月13日)、御会式(9月13日)法要が行われ、比企谷幼稚園の園児達が稚児として参列して佛さまにお花を捧げます。
ちなみに、この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところであり、「比企の尼」という女人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母であり、頼朝による開府後、頼朝公は武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせました。
また、頼朝公の正室北条政子夫人が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家公が生まれたと伝えられています。

妙本寺 祖師堂

この祖師堂が本堂かと思っていましたが、本堂は別にありました。

紫陽花
妙本寺 方丈門

帰りは60段ほどの石段を下り、方丈門をくぐって出ました。
石段の両脇にある紫陽花が見頃を迎えていました。


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