寺下の五重塔跡

寺下の五重の塔の写真

灯明堂跡から少し下ったところに、五重塔の跡地がありました。

五重塔跡は観音堂の西方、灯明堂近くの標高約210mの山中に位置しています。
元文5年(1740)、津要玄梁和尚が五重塔の建立を発願し、4年後の延享元年(1744)に完成、翌年の延享2年8月4日に五重の塔の落成供養を執行しました。
落成式には近隣寺院の僧侶や八戸藩の人々が集まり盛大に行われたと伝えられています。
その後、何回か修覆されましたが、大正2年(1913)8月22日の台風で倒壊してしまいました。

相輪の高さ7尺(約2.12m)、塔身32尺(約9.70m)、総高39尺(約11.82m)で、屋外の五重塔としては日本最小でしたが、真っ赤にそびえたつ塔は沖を走る舟からはよく見えたそうです。

現在は土台石のみが残されており、相輪と塔に使用された延享2年銘の蟇股や津要の彫刻による壁板が桑原家に残っているそうです。
また、塔の倒壊を惜しんで階上町役場に塔の模型が制作されているとのことです。

寺下の五重の塔の写真
寺下の五重の塔の説明

説明によると
『桑原家に保存の「五重宝塔修覆勧化帳」には、「津要玄梁和尚が仏法に無縁の衆生を済度せんと思いども妙案浮ばず、此上は仏意に任する外なしと観音に詣で、飲食を断ち、祈誓する事七夜、満散の暁、観自在菩薩が夢中に現れ、=善哉汝無縁の衆生を度せんと思わば、五重宝塔を営み、五智如来を本尊となし、五大力菩薩、五大尊を安置し、又、宝筐印陀羅尼佛、母陀羅尼佛、光明王陀羅尼佛を塔内に納むべし=と託宣、元文五庚申年より思い立ち、延亭元甲子年まで鉄石土木の功積りて宝塔成就と那る-中略-寛政五癸丑年(1793)十月吉辰 勧行主 八戸大工甚六 別当 野沢村 彦六」とある。現在地 階上町大字赤保内字寺下六の二。平成4年3月階上町教育委員会』
とありました。

行ってみて、こんな狭い山の中腹にどうやって五重の塔を建てたんだろう??という驚きでした。
いくら日本最小とはいえ、現在のような重機やヘリコプターなども無いわけで、そもそも建築資材をどうやって運んだんだろうと…
建っている姿をぜひ見てみたかったです。

寺下の五重塔跡

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